今日、会社を辞めました。(個人忘備録日記です)

不摂生からの疾病 リハビリで価値観が転換 退職しました。

むそぢ近しか。 移動中Wi-Fiも無く、読書と記述で埋めた跡

明け方夜半にひと雨あった。 夢だったかと思ったがラジオ体操の頃に洗濯を干して、夢で無かったことに気付いた。

 

同じ歳の男性が、何かの発作なのかブチ切れか、無謀な運転の末亡くなった。関西での事件報道。全く関係無い方だが、同じ歳というだけで目につく。今に始まった事では無い。サラリーマン時代も稀に感じた。同年代、同じような勤務境遇などの共通項をみて、何か思った。

何故だろうか、全く世代や性別、境遇が異なると気にもならない。良い事も悪い事も自分と置き換えて少しの選択、努力が異なればあり得た現状を夢想する。 運命など信じない。血液型も生年月日で物事がわかる訳は無い。 同じ時代を生きて来、見聞きした事が同じであろう人生の振り幅を想像する。 全ての決断、判断が今に繋がっている。 偶に潰れたくもなるさ。

 

日々悠々自適に過ごしたいものだ。

 

むそぢ(六十) 。 鴨長明方丈記をしたため頃、文中によく出る自己表現に「むそぢ」とある。概ね50代後半60頃の表現。この年代に色々振り返る事があるのだろう。現代でも還暦の風習は残るのがこの年代。反省や思い至る事、回帰の頃合いなのだろう。だが解脱、悟り、では無い。文中に嫉妬や妬み、羨やみ、軽蔑も見て取れる。総じて根底にプライドが有る中での世捨て気取りの点が人間らしく好感と共感を感じられる。

 

私も概ねむそぢ。

彼の如く捨て気取りとなれるか俗世に塗れるか。

 

彼と呼ぶか先生と呼ぶか、鴨長明氏が秀でて思える点は些細な事に一時執着、熱心に調べ、最後に記録を残した事。往時の世間に蔓延った書物は知る由が無いが、彼の書は千年残り、資料、往時の世情を伺う貴重な書となった。結果的に勝ち残った。彼は自らの運命を悲観し、勝手に先人の在原業平に同じような不遇を見い出し、先人の屋敷跡を探し、記述に残したりする。この執着は何処から湧くエネルギーだったのか。実際に足を運び、訪ねて廻って記録したようだ。 一方、家の仕事であった鴨神社の祭事に一時は奔走し励む物の、時には何もせず寄り合いにも顔を出さなかった彼は熱しやすく冷め易い性分だったのか。嫌な原因があったのか。今から測れない何かがあったのだろう。そんな自身の行いが結局自身の出世の道を閉ざし、そして評価を下げ、悲観に暮れる人生となった。因果応報を体現で示しそれをも記録した。斜に構えた点と素直さが両立している。

ヒトは中々己に素直な書は残せない。客観視を素直に捉える難しさと其れを残す勇気がいるだろう。やはり先生と捉えよう。