今日、会社を辞めました。(個人忘備録日記です)

不摂生からの疾病 リハビリで価値観が転換 退職しました。

Each set of values

物質所有と満足感は比例しているように見せて、実は反比例。そう呪いのように唱えて捨て去る日々。

「あゝ これは〜、捨てたく無い」と思う事、幾千回。昨年1年間使わなかった「保存所有:満足感」な物を悉く処分。問題は処分方法。書籍、CD、DVD等の一部は下取りに出したが金額は微々たるもの。書物を棄てる罪悪感解消のみ。文庫本類の読み物も、僻地で日本語表記に飢えた暮らしを思い出し、リゾートの片隅に無料図書として置きたい思いがあり、古本でも装丁が綺麗な品を買い続け、保存してあった品々。物の整理では無い、気持ちの整理。棄てるのは思いと認識。 どうして悩む物は、又、揃えて行けばいい。このような自問自答を重ねていると迷いが日常となり、少し変な気分。

迷い、決断、反省、後悔を繰り返すと精神衛生上どうなのか? 仕事で判断を迷い、決する時と何が異なるのか。「えいやー」だけなんだけど。

 

簡易な店でもホームセンターが在れば事足りるが、其れが無い島で暮らしていて、感じる事がある。 即物質の否定や精神的な哲学、理想では無い。何度か「ホームセンターなら売っているだろう。」と思い諦め、通販を検索した事か。那覇に出れば容易に入手できるが買い物に往復した事は無い。船だと宿泊を要するし、ボンバルディアDASH-8 小型機は気が進まない。代わりに間に合わせで購入した諦め品が身の周りに溢れる。悪い循環。ソーラー発電LED照明や衣服は何度か通販で購入した。物足りない感もあるが、生きて行くにはこれで充分。フル満足フル満腹は身体に悪いと己に言い聞かす。

 

電球。歴史的なフィラメント電球。安価だが耐用年数、頑丈さは価格比例。電力消費効率は悪く、導入コスト、導入労力と反比例。 簡単に手に入る安価な物はrunning costが嵩む。大量消費時代とはこんな物だったのか。昭和後半に生まれ、幸い戦時は体験しておらず、早21世紀も四半期を迎えようとしている今。丈夫で長持ちする物に囲まれた暮らしは未だ体験していないのかも知れない。昭和の音響機器を補修して使い。平成以降の品はドンドン壊れ、一体成形や接着された蓋を開ける事も結線し直す事も出来ず、新たに求める方が修理より安く、捨て去る前提で作られた品々。ゴミが増えて当然の未来設計。即物近距離指向デフレーション。欲しいと思わなければいいのだが購買欲を掻き立てるマスコミ戦略は余暇を楽しむ時や報道を確認する時をも狙い攻めて来る。テレビを視聴すると社会のコマ鼠に陥いる事は容易。大阪の家の要らない物を分別、処分しながら思いが馳せる。多分同じ思いの方々は多いだろう。だから循環型社会。ミニマリスト。のお題目が流行る見えざる一因。人として生まれ、生き、成し遂げる物は無いが、巣を滅ぼすような憐れな生き物にはなりたく無い。庭木の小さな世界を観ていると、他の生命を危うくする蔦、苔などが蔓延ると親木自体が枯れて自爆へ向かう。枯れ落ちた木には節穴が空き、クマンバチが住み着いた。生命は母体と種を替えて循環している。

この惑星は大丈夫か。