今日、会社を辞めました。(個人忘備録日記です)

不摂生からの疾病 リハビリで価値観が転換 退職しました。

祇園精舎の鐘が

刹那。 語尾に置けば使い勝手がいい言葉。感情、情景を定型句の様に語るこの言葉。だがこの言葉にも私的勘違いがあった。ニュアンス違い、思い込み。言葉の意味とは、普段触れる表現から読み解いて、時には意味を探ったり置き換えて表現して貰い認知して行く。過ごした刻と密度によって何様にでもなり得る。錯覚も当然であり、思い違いに気付くと不思議な感覚。

即物的で近視眼的、狭められた思考を表す表現を辞書で調べていると同義語凡例で目にした。刹那とは、まだまだ「勝手思い込み」が多い。異なる認識でいた。ナイーブ(naive)が未熟で未成熟、無知に近い意味を持つ事が純真より大きい事を知る思い。辞書が全てとは思わないが、錯誤して生きて何十年。人生折り返して後半の最近気付く事が多いが、さりとて辞書を引いて見ようとは思っても開く事が無かったここ最近。それも何十年かだ。

昭和、平成、令和と駆け抜ける最近になり、勘違い、ニュアンス違いであった母国語に気付く。遅まきながら。

人生で勉強していた刻は息抜きで読んだ小説や雑誌、社会人になってからは仕事にかまけて移動の列車位でしか読まなかった本。

勉強は仕事の調査、準備と資格試験の勉強程度。詰めた物では無い。興味に基づいての学習は覚えが無い。一時一瞬、一日を大切に過ごさないと何も残らない。やはりテレビは要らないか。

最近「諸行無常、」と使う事があり、語源、意味で釈迦と平家物語へ行き着いた。この語彙を平安時代に書き物として残す時代に、少し憧れる。

(書き起こした年代は未詳、鎌倉後半期とも)