そぼ降る雨とはそほづ雨、シトシト、しっとり、湿やかに濡れる雨。そほづは今や使われずそぼ降るが残る。昨夜半から続く雨は関西、沖縄共に濡らした。
島の植物を生き返らせてくれただろう。
カムチャッカ東岸に居座り列島を長く賑わした前線低気圧も東海に消え、遥南海の熱帯低気圧もマレー半島に至らず消え、南海の雨雲郡も消え去った。 関西の気温は12-14℃、やはり冷えるが島で言えば贅沢。 引き上げ荷から延長コードを出し、ハンダ迄はしないが結線を改め弛まないように島への荷に追加する。何度か修理し、掃除して長く使える道具。大量生産のコスト減と重用は反比例してしまうのか。こんな点から見直した方がいい気がする。
長く繋ぎっぱなしな電線(冷蔵庫等)は直結し、その他(コーヒーマシン等)を分配器具で使いやすく揃える。至極当たり前の配線だが修理手入れしながら改めて思い至る。これこそ身近なSDGs。 1452年の今日はレオナルド ダ・ビンチの誕生日。
雨がそぼ降る国道26号線を見下ろし、移送荷物の古いタッパーから弁当箱代わりになりそうな容器を探し洗う。最後は洗って仕舞ってあるが年月だろうか、留め具がついた液漏れ防止タッパーは蓋のゴムを外し洗うとゴム劣化か千切れる物も。あっても当たり前だろうが有限の素材製品である事を実感。アルミ箱は劣化が少ないが液漏れ恐れがある。便利さと有限の選択で諦めの上に成り立つ社会。まだまだ発展途上、終える事は永遠に無いだろう。課題は永遠。ヒトは無くした物の良い点だけを思い出す。一種の痴呆概念で気持ちを保つ自己保持(保全)機能。これは多くのシーンで存在する。頭の中はノイズのあるアナログ線が心地よい。
岬へ戻るとテレビが普通に観られるのでニュースを、天気予報を、野球をと切掛けを創造して点ける。そのうち意味なくつけてありしょうもないバラエティで我に還る。ああ恐ろしや。ラジオで充分じゃないか。
近所の日用品薬局で2百円の合成ノリを発見し、シャツ類を洗濯、糊付けして雨中ベランダ庇内に干し置いた。糊付け前に襟元の汚れも気になった。古いシャツだが新しくても全く着ない物といつも着る物と二分出来る。何故だ、好みが激し過ぎ。それ程大差は無いが、気持ちの問題か。
昔、色々お世話になった出版イベント会社が昨年倒産整理していた。2021年7月に管財人を選定。1年経って気付くとは。 昨夏、いつも行く病院待合に旧誌しか無く、最新刊希望で電話しようと思い立ったのは虫の知らせだったのか。電話代も馬鹿にならないので止めたのは後悔。 世の移り変わりは容赦無い。五蘊皆空の現世を思い知る。その出版社から派生した雑誌や編集プロダクション、カメラマンも多い。一部の雑誌版権を買って継続している会社は聞いた事が無い社名だが、多分小孫でそんな一社だろう。
2023年かぁ。アトムは何処だろう。