今日、会社を辞めました。(個人忘備録日記です)

不摂生からの疾病 リハビリで価値観が転換 退職しました。

1/05 木曜 一瞬晴後曇天

朝露が足下を湿らせながらも一瞬晴れた早い午前を除き曇天ベース。湿度は6割程。明日からも数日17-20℃の予報。f:id:info-tino:20230105083632j:image


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微妙な実を成して来た二十日大根は採りどきに悩むだろう。食害と成長とのチキンレース

オクラはほぼ葉を落とし、成実も何処か歪に成る物、形を成す途中で力尽きる実も出て来た。勿体無いかも知れないが一度肥料をあげて様子見。

朝スープの昼は韮根菜キャベツ焼。中々粉が硬い。


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クロアチアの長い民族紛争を少しは学ぼうと読み解く。 古くはアレキサンドリア3世(通称ドイツ語読みアレキサンダー大王)のマケドニアギリシャ大国に征服され、以降もローマ(ローマ皇帝ディオクレティアヌスクロアチアを含むダルマチア属州の首都サロナ(現在のスプリト市街地の北)出身で、305年に退位した後は故郷に戻り、現在スプリトに残るディオクレティアヌス宮殿で余生を過ごしています)。マケドニア、現スプリト発生の人が王位に着いた(対岸出身者に思える)ギリシャ王朝にも興味が湧いた。以降、東ローマビザンツハンガリーベネツィア、モンゴル、と古くは海洋交易地、豊かな内陸へのマケドニアへのゲートウェイと美しい古都の両面を持つ地として支配を受け続け、大国に揉まれて生きて来たクロアチアの歴史の一端が垣間見える上手く纏めた文章。とある旅行社の解説だが現クロアチアセルビア問題の起因、歴史的背景は窺える。

https://www.croatiatours.jp/about_history.html

 

この地は支配こそ受け続けたが激戦地を避けられたのか古代ギリシャ農民の石積み境界線が残り、ローマ時代の退位王宮も残された地。面白そうなのは海路交通運搬社会の名残なのか出島様式の港が多い。内陸マケドニアの川沿いにも多く残る現代の国道貨物ターミナルであったろう。前に何処かで見た2階から収穫物を落とす仕組みとか市民生活にも面白そうな気がする。都市農村、港建設が面白そう。

スラブ民族は多くの祖先をポーランド西部起因の移民族とされ、広く欧州に拡がり被支配、連合、分離、集散を繰り返して来たが隣国セルビアとの軋轢が影を落とす。

 

鋼鉄の鍬の歯の歪みを出来るだけ補正し根掘りの続行。鉄は難しい。曲がりを直そうと逆に力を加え過ぎると急激に折れたりする。力づくで奮う物を繊細に補修する。中々難しい。

 

夜はマンビカーの粗焼。蓋をして火を廻らせようとすると染み出した汁煮状になった。塩バジルのシンプル味。


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粗の骨を足した赤出汁味噌汁と御飯。

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