今日、会社を辞めました。(個人忘備録日記です)

不摂生からの疾病 リハビリで価値観が転換 退職しました。

6/28 火曜日 晴時々曇り 本土梅雨明け 久米島の戦史災難

概ね晴天で28ー31℃ 湿度は7-8割 弱風下で朝は水遣り、柑橘とバナナ。庭の内側南西部のドラゴンフルーツは幾重にも重なっていた枝を秋に広げて仕立て直した辺りで外側(南側)は勿論、内側の庭側(北側)にもいくつか開花が見られた。東西と南中上方向の陽射し狙いなのか。

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朝日を向いており既に蜂が来ていた。蜜が美味いのだろう。仕立てたのは開花を狙った訳では無い。余りに重複し、整える前に触れない姿で毛虫に齧られ、可哀想に見えた為。風、日射を通す通すと良くなるものだ。毛虫ので薬も撒きやすくなった。重なった葉を目隠しとして広げただけ。

本州は殆どの地で短い梅雨が明けた。長雨が続いた沖縄は明けた喜びも大きいが群発も続く四国の水も心配な程のから梅雨だった。


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https://tenki.jp/past/chart/

電力、半導体不足に水不足でインフレ。更に重なる物があると厳しい世、かな。

 

朝は前日から漬け置いた出汁で乾麺蕎麦。出汁には人参戻し椎茸エリンギ、風味はバジルと胡麻、山葵、糖分はバナナ。一味薄いがそれでいい。f:id:info-tino:20220628115607j:image

 

-----いつも暗い気持ちになるこの事件の記事(抜粋)-----

久米島で住民20人〝処刑〟 スパイ容疑が招いた惨劇 1972(昭和47)年・〝沖縄のソンミ事件〟報道〈サンデー毎日〉2022年6月27

 

 沖縄が日本に復帰した1972(昭和47)年は本誌『サンデー毎日』の創刊50年と重なる。その記念特集で本誌は終戦の年に起きた日本軍による島民虐殺事件をスクープした。折しも沖縄返還から半世紀。改めて問う―銃は、軍隊は、本当に国民の命を守るのか。

 ベトナム戦争中の68年、当時の南ベトナム・ソンミ村で子どもを含む住民約500人が米軍に殺された。北ベトナムに支援され、ゲリラ戦で米軍に対抗していた「ベトコン」(南ベトナム解放民族戦線)と通じていると疑われたからだった。

 米国の歴史に汚点として残る虐殺事件の名を、本誌は時計を逆回しし、終戦前後の沖縄・久米島で日本軍が島民を〝スパイ容疑〟で次々と殺した罪に重ねた。

〈それから、私たちは敵の米軍より味方の日本軍のほうが恐ろしくなったですよ。こわくて焼け跡から遺骨も拾うこともできない〉

 27年前、友軍の手で実弟を殺された男性の訴えを、本誌72年4月2日号は「特ダネ」として報じている。

 45年3月、慶良間諸島への米軍上陸から始まった沖縄戦は本土決戦を先延ばしする「捨て石作戦」とされる。6月下旬に本島での組織的戦闘が終わると、米軍は久米島に上陸、島の大半を制圧した。島には当時、通信任務を担っていた約40人の海軍部隊がいた。〝守備隊〟とは名ばかり、島北部の山中に籠もり、もっぱら島民が米軍の味方につくことを恐れ、監視していた。

 6月27日、最初の犠牲者が出た。米軍に捕まった郵便局員の男性だった。

〈米兵に山の中の日本軍にあてた降伏勧告状を持って行けと命令されたですよ。断われば殺されるからと思って山に行ったら、日本軍にスパイと決めつけられて、隊長に銃殺されたですよ〉

 男性の親類は取材にそう明かした。さらに同29日、民家に集められた9人が隊員に刺殺され、家を焼き払われた。家族の中に米軍の上陸前、偵察兵に連行され、後に帰された人がいたことがあだとなった。

 スパイと見なされれば一家全員皆殺し――それが日本軍のやり口だと島民は理解した。先述した郵便局員の妻は親族に累が及ぶのを恐れて家出、入水自殺した。

 「もういい」と「やつざき」の落差
 惨劇は〝終戦〟となっても続く。8月18日、久米島出身の海軍兵、仲村渠(なかんだかり)明勇さんが殺された。捕虜だった仲村渠さんは米軍の案内役として久米島に戻り、島民に投降を説いて回った。艦砲射撃をやめさせ多くの命を救った恩人とされるが、妻と2歳の乳児とともに殺され、家を焼かれた。同20日には、朝鮮人を主(あるじ)とする一家7人が殺害された。

 結局、20人の島民が日本軍に〝処刑〟されていた。本誌は命令を下した「隊長」こと、元兵曹長のK氏を探し出して直撃している。

〈スパイ行為に対して厳然たる措置をとらなければ、アメリカ軍にやられるより先に、島民にやられてしまうということだったんだ。(中略)いまは戦争を罪悪視する平和な時代だから、あれも犯罪と思われるかもしらんが、ワシは悪いことをしたと考えていない〉

 K氏はそう語り、殺害の様子を淡々と説明した。

〈処刑は銃剣でやるように(隊員に)命令しました。突くようにね。

――突殺して、放火した?

 ええ、火葬にしました。家と一緒にね〉(一部改変)

 まさに闇に葬られてきた事実を暴いたスクープは沖縄内外のメディアで大反響を呼んだ。本誌が初報でKと匿名にした元兵曹長はテレビにも出演。実名「鹿山正」を名乗り、「軍人として当然だった」と述べた。

 テレビ局には視聴者の電話が殺到した。だが、〈その声は本土と沖縄ではまったく対照的〉だったと本誌72年4月23日号は伝える。本土からの電話の7割は「戦争の犠牲は沖縄だけではない」といった意見だった。

〈「もういいではないか」(本土)に対し「やつざきにしてやりたい」(沖縄)。この落差は何か〉

 記事はそう書いている。

(ライター・堀和世)

https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20220627/se1/00m/020/003000d

 

何度か目にするこの題材、立場を様々に変えて理解を試みるが基本的に未体験の事なので難しい。本土から守備隊として派兵された側として本島の壊滅と本部の指示の齟齬に惑われたとしても、当然理解の範囲を超えている。 人として許されざる行為だ。当事者の以後の傲慢な態度も気になるが、国の指示に従う盲目的な兵器となる事を奨励した社会情勢下では如何だったのか。孤立しても総合的判断など求められてはいない立場の駒はこうも暴走するのか島民が自らの近所の人々だったらどうなのか、くだらなく不誠実な事件だが多くの戦争中の事件の一つだろう。知識の元は講和、伝承、小説、漫画、戦前教育の資料程度。 戦下の情勢は想像の域を出ない。現世は異なると思いたいが現宰相、前、前宰相の思考回路と行って来た事実をなぞっても寒気がする。何も変わっていない。情報伝達手段が増えた事のみが救いか。