今日、会社を辞めました。(個人忘備録日記です)

不摂生からの疾病 リハビリで価値観が転換 退職しました。

記憶

 

埋田の記憶

1970年台初頭、小学校高学年に差しかかった年頃、阪急沿線の小学生だった私は類に漏れず草野球に熱中。プロ野球に憧れた。大阪にはパシフィックリーグの球団が3球団もあったが、巨人阪神セントラルリーグに大きな水を開けられ、マスコミ関連企業を持たない鉄道球団達は同じ競技と思えない程露出格差があった。 阪急北摂沿線では駅や車中吊りポスターでかろうじで告知を知った。当時のアナログ小学校3年生にとっては他に知り得る手段も無く、稀に中継があるとラジオ関西近畿放送をノイズの隙間から聞き取る程度だった。何故かスタジオと放送所が直ぐ近くのMBSは異国怪電波が被り、入りにくい我が家だった。 阪急v3と近所の同級生の波に乗り、ブレーブス子供会に喜び勇んで入会し、小学生無料優待の西宮球場外野席に何度も訪れた。その時、初めて子供だけで梅田を訪れた。 梅田駅からブレーブス坊や特急で西宮北口まで。梅田駅の乗り換えも幅の広いプラットホームコンコースを楽しみながら通った。当時は手持ちの小遣いも僅かで、球場で飲み食いなんか夢の世界。 外野席スコアーボード付近では望遠レンズで投球毎にシャッターを切る新聞社のカメラマンとは直ぐ顔馴染みになり、スコアの記録方法を教わり、手伝って大人気分を楽しんだ。球場で覚えている選手はライトを守っていた長身助っ人。一目で分かった長い足の(バーニー)ウイリアムズと筋肉質の強打セカンド、(ボビー)マルカーノ。主力の加藤英司や福本は単に怖いオッさんだった。投手では大エースの山田さんや何故か登板と観戦が重なった白石投手も当時の私には近所や学校では出会わない異世界のオッサンだった。

小学生にとっての梅田は怖い異世界で、改札内乗り換えが基本だが稀に出ると阪急コンコースの高い吹き抜けと見た事も無い欧州を模した百貨店前は高い円形天井を見上げて歩き、地下は当時もカオスで阪急梅田駅から阪神スナックパークまでが精一杯の冒険だった。 ある同級生がイカ焼が美味いと誘って訪れたが阪神改札前の雑踏は、多くの円柱で見通しが効かず低い天井が阪急とは全く異世界で円柱毎にタバコ雑誌新聞を並べた売店は映画の戦後闇市のようで、切符を売る為に声掛けしているおばちゃん達すら怖く思えた。今思うとアジアらしい雑踏に気圧された10歳の私は、本当に小僧だった。

 

当時は水筒も持ち歩く習慣は無く、球場はなんでもとにかく高く、水分は駅の売店で甘い牛乳系飲料か街の薬局前の噴水を模した自販機だった。

f:id:info-tino:20201120195220j:image

f:id:info-tino:20201120195929j:image

f:id:info-tino:20201120195933j:image

今年は楽天の春キャンプの日々練習状況のライブ動画が観たくて年間千円のプランで2月にパリーグtvに入ったので11月まで視聴が楽しめたがペナント内容は散々で個人成績と若手選手の躍動以外観る物は無かった。幼少期の刷り込みとは怖いものだ。