今日、会社を辞めました。(個人忘備録日記です)

不摂生からの疾病 リハビリで価値観が転換 退職しました。

4/04 土曜曇天

世の中の雰囲気とは怖い物で、これだけ報道でコロナ渦の実況、政策、動向が流れると気が滅入ってくる何も個人的な悲劇は無くとも世の中の動向が不安と怒りを孕んだ不満だと感じると自ずとそうなる。集団心理とは怖い物だ。

 

仕事と言えないような就労の日課を終え、気分は晴れやか な筈だが、今ひとつ冴えない。 

朝は同じ時間に目覚めるが直ぐに出掛ける必要が無いのは緊張感の緩和と何かを連れて来るのか。開放感と表裏一体な喪失感。何も失ってはいなくとも感じる。感傷がもたらすマジックか。

 

近所を歩き、運動不足を解消するが歩行時の自分のバランスの取り方にやはり違和感を感じる。人は細かく左右に体重を移送しながら自然に歩く。無意識下でほぼ反射での動き。そこに意識と修正が必要となっている。考え過ぎかと自問を繰り返すが意識しないとブレる。この動きが違和感。中々慣れない。 世の中には疾病や怪我でなんらかの不自由を抱えた人は多数存在している。其々皆何らかの闘いを経て日々生活している。

 

自身が視力、聴覚、嗅覚を失った事を想定しながら少し歩く。想像を絶する。嗅覚で物事を判断していたとは思わなかったが、木々、草を感じ、空気感を感じるには必要で鼻詰まりの時の不快感の原因を知った。視覚聴覚は今更言うまでもない。現代生活での生存に必須に近く、他機能での代用は容易では無い。触覚は視聴嗅覚と連係して物を認識する。主力の一つで有り、他者をも補完する。

五感と表現力の一部を欠損し補完を目的としたこの暮らし。身体を使う仕事に不安もあったが、慣れても来、運動とリハビリを兼ねて自分なりの完成度を求め其れなりに来た。 当初から分かっていた事だが継続には基盤の収支条件の問題もあり、蓄えを遣い続ける事に漠然とした引っ掛かりが消えず。何れ副業や年金受給者として検討するとして、今は身を引いた。 

此処へ来る時は思い描いた自身の行動、運動が出来ない事に苛立ちや失望を感じ、落ちていた。これまでの顧客には心配をかけ、身体を気遣い顔を覗き込ませる様が重荷で、リードすべき提案事項も中々伝わらない言葉に苛立っていた。

決行は向こう見ずな収支プランであったが、生きていく糧として新たなエネルギーを必要としており35年前にエネルギーを頂いた島に賭ける。己としては替え難い感があった。

収支を鑑みると赤字が厳しいが1年間のリハビリ、旅行と捉え、自ら府に落とし込んで締める。

 

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